風景を眺めた

ゃはねのは

2017年09月04日 11:42

子どもの頃は田舎で育った。
だから、周りは山や川ばかりだった。
けれども、山や川のある風景をじっくり眺めたことはなかった。
いつも山の中にいた。あるいは川の中にいた。つねに自然の風景の中にいた。風景を外側から眺めることはなかったのだ。

すばらしいとか、美しいとか、感嘆の思いで風景を眺めた初めての経験は、いつだっただろうか。
たぶん、青年期が始まろうとしたときではなかっただろうか。田舎を抜け出して都会で生活を始めて、自然というものから遠ざかっていた時期のあとに、ふたたび山や川のある風景に接した、そのときはじめて、自然の風景というものを意識したと思う。
自然から抜け出したあとに、自然というものを客観的に眺めることができたのだった。そのときから、山や川や木々を風景として意識しはじめたともいえる。

犬は風景を見ない――と述べられているのは、赤瀬川原平の『四角形の歴史』という本で、とても興味深く読んだ。
「風景は犬の目に入っていても、犬の意識には届いていない。つまり犬の頭は風景を見ていない」という。そして、人間も昔は風景を見ていなかったという。
ちょうど、ぼくらの子ども時代と同じだろうか。必要なもの、すなわち人物や建物や動物などの、物しか見ていなかったのだ。

このことは、絵の歴史を振り返ればよく解るという。
古い時代の絵は、動物や弓などが壁や土器に描かれていた。その頃は、人間の目は犬の目と変わらなかったのだ。
風景画というものが登場するのは、モネやゴッホといった印象派の画家以後らしい。
キャンバスに絵を描くようになり、四角い画面を持つようになって、人間はそこに描かれた物のほかに、余白というものがあるのを知り、その余白というものを通して、初めて風景の存在を知り、それを絵の中に取り入れたのではないかという。

もっと古くは、「人間がおずおずと住居を建てて、その住居の壁におずおずと四角い窓が開けられたとき」(同書)ではないかと。
住居の窓も四角いフレームだったのだ。そして、この窓から見たものが、人間がはじめて見た風景ではないかという。おそらくは雨の日に、ぼーっと窓の外を見ていた。仕方なく、目的もなく見たものだった。風景はそんなところに在ったのだ。

よく見ると、自然界のあらゆるものは曲線でできている。いっぽう、今の人間社会はほとんど四角形でできている。この四角形の発見こそ、人類の考えの特許だという。
では、四角形というものはどうやって発見されたのだろうか。
物を蓄えることを覚えた古代の人間が、狭い小屋の中に貯蔵物を1列目2列目と並べていくうちに、スペースというものができ、そこから四角形の概念が生まれたという。物を整理するという行為から四角形と余白が生まれ、合理という考え方が生まれた。
「四角形は文明の基本となっていった」のだった。

「余白は無意味である。合理から生まれた四角形が、世の中から無意味を取り出したのは不思議なことだ」と、同書には書かれている。
さまざまな風景の中で、ぼくたちは意味がいっぱいの世の中に暮らしている。その反動として、ときどき四角形の外に、無意味の余白を求めたくなったりする。それが現代人にとっては、息抜きのようなものなのかもしれない。
それでは、風景を見ない犬には息抜きは必要ないのだろうか。
「(犬は)無意味を見て眠っている。犬はこの世にいる味だけを、味わっているらしい」という。
そういえば犬は、いつも穏やかな顔をして眠っているかな。http://www.putao.com.tw/blogReply/101161>FIC
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